■治療学・座談会■
個別化医療をいかに実現していくか
出席者(発言順)
(司会)萩原弘一 氏(埼玉医科大学医学部内科学)
松原洋一 氏(東北大学大学院医学系研究科遺伝病学分野)
春日雅人 氏(国立国際医療センター研究所)
福嶋義光 氏(信州大学大学院医学系研究科遺伝医学・予防医学)

単一遺伝子病研究における課題

萩原 最近,個別化医療,あるいはオーダーメイド医療,テーラーメイド医療という用語をよく耳にします。 これらを,体細胞や一生涯変わることのない生殖細胞系列の遺伝子情報に基づく新しい医療と定義し,本日は,各分野の先生方にお話をうかがいたいと思います。

■コモンディジーズへの関心の移行

萩原 松原洋一先生から,お願いできますでしょうか。

松原 私はもともと小児科医として研修を受け,ゲノムプロジェクトもない約 25 年前に,先天代謝異常症の研究を始めました。 これまでに,先天代謝異常症はあらかた原因遺伝子が明らかになり,遺伝子診断などは行おうと思えば可能な状況になっています。 その後私は,先天代謝異常症から単一遺伝子病へとフィールドを広げ,現在,研究や臨床応用を行っています。

 最近,私たちの研究室では,RAS/MAPK シグナル伝達経路の生殖細胞系列の変異が,先天奇形症候群の原因になると報告しました。 約 10%の症例は癌も発症しますが,それはメインではなく,主な表現型として発達異常を生じることがわかり,研究を進めているところです。

 現在,遺伝子解析研究の潮流は単一遺伝子病から徐々にコモンディジーズに移り,研究費もそちらのほうにシフトしています。 一般の人々の関心からすれば当然かもしれませんが,研究者の立場では,単一遺伝子病が少々軽視されている気がします。 単一遺伝子病をさらに研究することにより,より普遍的なものがみえてくる可能性があると考えています。

■臨床応用を可能にする体制の不備

萩原 研究成果のもたらす患者側のメリットについては,いかがでしょうか。

松原  RAS/MAPK 関連の遺伝子異常は,ヌーナン(Noonan)症候群やコステロ(Costello)症候群, CFC(Cardio−facio−cutaneous)症候群などの疾患を発症させます。これらの疾患について, 他の臨床遺伝の専門家たちと共同研究を行っていて,次の 2 つの問題点がみえてきました。

 1 つは,遺伝子診断により診断が確実になると,それまでは顔貌などの特徴だけで行われていたため,しばしば誤診されていたものが是正され, 予後や合併症をより適確に予測できるようになったことがあげられます。 ただ困ったことは,まれな遺伝性疾患の場合には,日本では長期フォローがきちんとなされていません。 小児期に発見されることの多い有名な疾患でも,小児期を過ぎると,その後の教育,就職,結婚,出産などのフォローアップはまったく行われていない状況があります。 今後の課題だと思います。

 もう 1 つは,遺伝子診断を日常臨床として提供できる体制が日本にまだ構築されていないことです。 研究段階を過ぎ,遺伝子診断の有用性が臨床的に確かめられても,日本にはそこから先の受け皿がありません。 現在,保険適用が認められた遺伝性疾患の遺伝子診断は 13 種類しかありません。しかも,2008 年にようやく認められたばかりです。 一方,米国や EU などの検査会社は,実施可能な遺伝子検査を約 2 千種類もリストアップしています。 ですから,日本で病因遺伝子を発見し遺伝子診断を開発しても,臨床応用されてその恩恵を得るのは外国の患者さんなのです。 日本では,患者さんが数万〜数十万円の費用を払い,外国に検体を送らなければなりません。

 研究から臨床への患者さんへの還元を考える場合には,このような遺伝子診断提供体制が大切ですし, また先ほど述べた一生涯にわたる QOL などを含めたフォローとケアにも,もう少し踏み込んでいかなければいけないと考えています。

萩原 遺伝子診断自体に関する理解で,問題があったことはありますか。

松原 遺伝子診断に対する倫理的な規制は,現在,非常に混乱した状態にあると思います。たとえば日常臨床でも, 染色体異常症の診断は何十年も前から普通に外来でお話をして検査を行っていて,そのなかには遺伝性疾患も多数含まれています。 その一方で新しく発見された遺伝子情報に関しては,かなり厳しい規制がかけられているという状況があります。 倫理審査などの基準を,臨床に即して整理する時期にきていると考えています。

糖尿病研究における課題

■オッズ比 1.5 がもつ意味

萩原 次に多因子疾患について,春日雅人先生にお願いしたいと思います。

春日 糖尿病は現在,血液中のグルコースの値が高いことから診断されており, したがって,疾患の成り立ちは患者によって異なります。私たちが行っているのは,疾患の成り立ちを遺伝的な情報から明らかにしようということです。

 10 年以上前は,糖尿病と診断されている単一遺伝子病が主に検索され,いくつかその原因遺伝子が同定されています。 ただ,それは糖尿病の遺伝素因の 2〜3%を説明するにすぎませんでした。 それ以後,種々の環境要因や他の遺伝素因と一緒になって糖尿病を起こすような遺伝子や遺伝素因がないか,検索されています。

 数年前にゲノムワイド関連研究(genome−wide association study:GWAS)が可能になったことから, 世界的に,すでに 10 以上の単一塩基多型(SNP)が発見され,それをもつ場合ともたない場合とで糖尿病発症率が異なることが明らかになっています。 ただ,いずれもオッズ比は 1.5 以下です。

 糖尿病,すなわち複数の遺伝素因と環境要因が重複して発症する疾患では,ある意味では衝撃的なことですが, 少なくともオッズ比が 1.5 程度の SNP をもっていても,生活習慣の改善といった介入により,発症しなくなる場合が多いということが報告されました。 Diabetes Prevention Program は IGT(耐糖能異常)からの糖尿病発症を調べた大規模臨床試験ですが, 代表的な糖尿病関連遺伝子である TCF7L2 の SNP を調べたところ,まったく介入をしなかった人たちでは確かに TCF7L2 のリスク SNP をもっていると, 糖尿病を発症する人が多かったのですが,食事療法と運動療法で生活習慣を改善した群では TCF7L2 のリスク SNP をもつにもかかわらず,糖尿病の発症には差がありませんでした。 そういう成績から,少なくともオッズ比が 1.5 あるいはそれ以下の場合には, 疾患発症における遺伝素因の役割,または個別化医療における遺伝素因の意義が見直されてきています。

 また,2008 年 11 月の New England Journal of Medicine に 2 報,同様な成績が報告されました。 それは,最近明らかにされた糖尿病の発症に関連する SNP の情報が,糖尿病発症の予測率を高めるかどうかというコホートスタディの結果です。 体重や血糖値,OGTT(経口ブドウ糖負荷試験)値,肥満の有無,インスリン分泌能などの臨床情報にこれらの遺伝子情報を加えても, 予測率は少し高くなりますが,有意であっても,ごくわずかだったということが明らかになりました。

■可能性としての各遺伝子変異の重複

萩原 糖尿病は相対危険度がやや低めなので,倫理的な問題は比較的解決しやすいかと思います。そのあたりは,いかがでしょうか。

春日 そのとおりで,オッズ比の低いリスク SNP がみつかっても,生活習慣を改善することで, それを克服できると指導できるので,気分的には楽だと思います。

 糖尿病の遺伝素因は,小さな効果をもつ頻度の高い遺伝子多型(common disease−common variant 仮説)によるという考え方のみならず, 多種類の比較的頻度の低い多型・変異によるという考え方もあり,今後はこの後者の考え方に立った検討も必要と思います。

 その検討のためには,単一遺伝子病ほどではないにしても,遺伝情報をきちんとフィードバックして十分な説明を行うことが,重要と思います。

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